佐藤正明 絵画と心



 花と実 「春」

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 心の言葉

日差しの微笑


2007年2月3日の日記

 日の経つことの何と早いことか、もう節分になってしまった。例年なら、「暦の上では明日が立春でも、まだまだ寒さが厳しい」などと言うところだ。だが、今年は暖冬のせいか名の通り立春の気配がする。

愛犬ミニョンのおしっこのため庭に出て、露地の花壇に目をやり「オッ!」と小さな驚きを覚えた。いつの間に咲いたのか、福寿草の花が開いていたからだ。7輪もあった。その存在さえ忘れていたのに、何という律儀さだろう。

その黄色い花は、まるで日差しのぬくもりとメッセージを集める、地表の小さなパラボラアンテナのようだ。雛菊はまだ地面にへばりついている。防寒の姿だ。たしかに空気はまだ冬だ。冷たい。しかし、日差しは微笑んでいた。それは春がもう近いと告げる何よりの知らせなのだと思う。

マンサクも咲き始めていた。水仙はとうに咲いている。ハコベやオオイヌノフグリも伸び始めている。それらの中に立って私はある感懐を覚えた。ああ、今年も春になるんだなぁ。それにしてもこの私はあと何回春を迎えられるんだろうか?たとえ可能だとしても、もうそう多くはないだろうな、と。

 ただそれだけのこと。他の人々や世の中にとってはどうということもない話題に違いない。しかし、今ここに生きている自分のHic et nuncは平凡でもかけがえがないことなのだ。そんなことを思ったら、そんな今の自分とこんな季節の変化とをきっかけに、人の一生や人類の行く末をちょっぴり考えてしまった。

人は生まれ、いつかは死ぬ。だが、自然は春が来れば花を咲かせ、その営みはやむことがない。地球は太陽の周りを回り、太陽も銀河の一隅にあって移動している。宇宙の悠久さに比べれば、たかだか4,5百万年の人類の歴史など何ほどのこともない。ましてや人の一生など、儚くて瞬時に等しい。

ところが、その人類は経済活動によって地球環境を変え始めている。特に20世紀以後が急激だ。地球温暖化はその一つで、心ある人々は今パリでその問題を論じている。絶滅する生物が多いのも明らかに人間が増えすぎた結果だ。人類がこのままの在り方を続けたら、地球はどうなるだろうか?

わが庭にいる限り、自然は平和で豊かに見える。しかし、実際は多くの哺乳動物や鳥類が地上から姿を消しつつある。気候変動によって植物の生態系も変わり、人類はそのうち食料難に陥るかも知れない。その時は食料の争奪のために戦いが起こり、核兵器の使用によって生物が絶滅するかも知れない。世の終わりとはそういう天変地異や、生き残りの戦いで現実となる可能性がある。

そして、地球が荒廃して無人となれば、犬も吠えず鳥も鳴かず、蝶も飛ばない沈黙の惑星となる。それでも地球の自転は続き、温帯には四季が回り来るだろう。その時、生命力の強い野の花は相変わらず咲き出るだろうか?地中の虫たちや細菌は生き長らえるだろうか?乱獲された魚たちは、人間がいなくなってよかったとでも言いたげに、その数を復元させるだろうか?

荒廃した大地には、人が育種した花たちの姿はもはやあるまい。福寿草はどうだろうか?早春の日差しはそんな荒廃した地球上でも微笑み続けるのだろうか?もしそうなったとしたら、何と寂しい微笑になることだろうか。

そうならないために、さて、私は何をなすべきなのか?そんなになるかも知れない時、私はもうこの世にはいないのだから、私の知ったことではない、などと無責任にはなれそうもない。あと何回春を迎えられるかわからない身ではあっても、地球上には花々が咲き小鳥が囀る、そんな今と変わらない四季が回り続けてほしいと願う。日差しの微笑む庭でそう思った。


花と実の絵をたくさん描くわけ


2003年7月21日の日記

私の絵の中で最も多いのは「花と実」シリーズだから、「どうして花をたくさん描くの?」と思う人がいるかも知れません。今後個々の絵のコメントもしていこうと思っているので、今日はその「どうして?」に答えておきたいと思います。

 私は子どもの頃から花が大好きでした。しかし、絵に描くのはほとんどが風景であり、たまに人物や鳥獣もありましたが、花や実はもっと稀でした。なのに、多く描くようになったのは2000年の夏からで、きっかけはこうでした。

 なぜか老境に入ってからものすごく蚊に好かれるようになった私は、戸外での風景スケッチが辛くなっていました。そんなとき、長男の嫁の実家から水彩鉛筆を贈られたのです。試しに松葉ボタンやペチュニアなど身近な花を瓶にさし、室内で描いてみました。そして、気付いたのです。これなら蚊に刺されずにいくらでも描けると。よし!というわけで、以来花と実が多くなったのでした。要するに、直接のきっかけは蚊に食われないためという低レベルの動機だったのです。

 今振り返ると、その頃の花の絵は人様にはとても見せられないお粗末なものでした。しかし、そこから多くを学べました。例えばクレオメを描いた時です。それまでも花や実の違いや特徴は心得ていましたが、いざこの花を描いてみると、いかにそれが個性的であるかを痛感しました。この花は風蝶草とも言われ、蝶が風に舞っているように見えますが、それはピンクや赤の花びらがあたかも五枚のスプーンのような形で、おしべめしべと共に中心から伸びているからです。私はそれを描くまでは、観念的に何かぴらぴらした花びらの集合ぐらいにしか捉えていませんでしたが、よく観察して驚嘆しました。

 一花は万花に通じ、一見単純そうであっても実はそうではないことを私は花ごとに学んでいったのです。そして思いました。「花でさえこうなら、ましてや人間においておや!なのに、私は今この花たちにしているように、かつて学生や生徒たちの一人ひとりを見てやっただろうか?」と。自問自答の答えはほろ苦い「否」でした。だから、以来私は花や実をしっかり観察し、丁寧かつ克明に描くようにしているのです。かつての怠慢のつぐないをも含めて…

 ただ、ていねいかつ克明に描くこの習性が私の最近の風景画に悪影響を及ぼし、大胆さを妨げがちなことも事実です。しかし、描く相手と対話し考えながら描くことは、どんな絵でも共通なのではないでしょうか。例えば、建物の壁を描くときは、煉瓦を一つ一つ積み上げた労働者の汗と会話と疲れを思いながら、私も一つ一つ描く。花や実を描く時は、どうしてそんな色や形なのか、聖書にはどんなことが書かれているか、ある作家や哲学者の言葉にはこんなのがあるなどと、何らかのライトモチーフのような言葉を反芻しながら語りかけるのです。

 時々、私の花と実の絵は「写真みたい」とか「図鑑みたい」などと言われます。少々侮辱的と思うこともありますが、今はそれが私のスタイルなので、人に感じさせる何かがありさえすればそれでよしとしています。ただ、たとえ具象画でも、絵は写真とは似て非なるものです。カメラは絵筆にできないことができる素晴らしい発明品で、私は写真も大好きです。しかし、もともと絵とは抽象的なものであり、写真は具体的です。これが両者の根本的違いだと思うのですが、シャッターを押す瞬間、人は被写体とどれくらい対話できるのでしょうか?瞬間かそれとも時間をたっぷりかけるか、そういう点も大きな違いです。

 しかし、両者には共通点もありますね。詩人リルケは存在物を「物達」と言い、特定の時間・空間の中にいる物達は詩によって永遠の姿に変容させてもらいたいと切望しているのだ、と理解しました。実は、写真は写真なりに絵は絵なりに、両者とも物達に同じような変容をもたらせる点では共通なのです。だから、私も絵によって、花や実だけでなく多くの被造物達にそうしてやれたらなぁ、と思って描いています。たとえ素人絵ではあっても…


うれし涙


2003年8月9日の日記

「薔薇」

 新聞を持ったままソファーに深く掛けてぼんやり窓の方を見ていたら、妻が尋ねた。
「何をジーと見ているの?」
「ん?…別に何も。」
だが、彼女はいぶかしんでもう一度言った。
「だって、どこか一点を見つめて、何か瞑想しているみたいだったわよ。」
そうか、瞑想しているみたいだったか。実を言うと、私はその時ふと人生を振り返って自問していた。「私は嬉し涙を流したことがあっただろうか?」と。だが、そんなことは妻には言えないから、何食わぬ顔で新聞に目を戻したが、その問いは心に居残った。もしその答えが否定的だったら、どういうことになるのだろうか?私の人生は劇的な喜びもなく、ごく平凡なものだったことになるのかな、とも思った。

涙を流したことはたくさんある。「泣きんべえ」とは私の子ども時代のあだ名の一つだったから、流し過ぎたくらいでさえある。そして、老いたら再び涙もろくなり、不覚にもすぐもらい泣きすることがある。しかし、十代半ば以後はやたらに涙を見せない自分にはなっていた。それでも記憶に残るほどの辛さ、口惜しさ、悲しさでは涙を流したことはある。中学に行けなかった時、少年兵時代に理不尽な理由で班長から軍人精神注入棒の罰を20発出血するまで受けた時、母が死んだ時、3畳の部屋で貧乏住まいを強いられた時などなど…

だが、嬉し涙は?嬉しかったことはたくさんある。カナダで初めて恩人達と会えた時、長男が生まれた時、初めてイスラエルの地を踏んだ時、Mさん親子3人が洗礼を受けると聞いた時などなど。しかし、嬉し涙はなかった。結婚式の日さえそうだった。もっともその日には、当時働いていたベルリッツスクールの仲間たちが「大空も嬉し泣き」と書いた電報をくれた。大雨の日だったからだ。私は涙しなかったが、空が代理で涙してくれたわけだ。だが、自分が嬉し涙を流した記憶はない。

唯一思い当たるのは1948年12月8日、無原罪の聖母の祝日に19歳で受けた洗礼の時かも知れない。その日、私は7時のミサ前の洗礼式が待ちきれなくて、もう6時頃には当時小田急線藤沢市本町駅近くにあったキンダ-ハウスの門前にいた。霜が耳たぶを切り裂きそうな寒さの中、バラ色に染まった東の空を私はずっと見ていた。私の「ミニバラ」の絵のような色だった。洗礼ですべての罪から清められ、新しい人に生まれ変わろうとする嬉しさを、私はその朝空にオーバーラップさせ、魂が高揚していた。門が開くまでの1時間立ったまま、寒さも気にしなかった。半世紀経ても忘れない情景である。

洗礼を授けてくださったのは日本に着任したばかりのレデンプトール会士、A・ドモンティニ神父様だった。洗礼の水が額を流れたとき、私は感動で目頭が熱くなった。だが、流れ出たらしい嬉し涙は、洗礼の水と合流して混じってしまった。だから、「らしい」程度のはっきりしない体験の記憶なのである。それに、その時は洗礼そのものの喜びが圧倒的で、嬉し涙などはどうでもよかったのだった。

というわけで、やはり私には純粋な嬉し涙の経験はなかったことになる。しかし、その時は必ず一度は来ると信じている。では、その時とは?この世の命を終えて神のみ前に立つ時だ。人は笑うかも知れない。そう、笑われてもいい。イエス様の教えに賭け、信じて命を全うした後、信じたことが真実で、神のみ顔を仰ぎ見ることができ、先にみまかった親しい人たちと神の国で再会できたら、その時私はきっと、嬉し涙で号泣してしまうのではないかと思う。
8月15日は仏教ではご先祖の霊を迎えるお盆、キリスト教では聖母マリア被昇天の祝日だ。その日が近づいている。聖母はエフェソで終焉を迎えられた。私はその礼拝堂で祈ったことがあるが、その地はヨハネの黙示録を想起させる。その書にはこう書いてある。

「神は自ら人とともにいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(Ap21;3-4)と。悲しみ、嘆き、労苦の涙を拭い去っていただいた後、流れ出るのは嬉し涙に違いない。


ベロニカの花に思う


2004年5月21日の日記

 草取りをしていてオオイヌノフグリがあると、私は引き抜くのをためらう。他の雑草にくらべて明らかにえこひいきではあるが、それというのもこの野草には浅からぬご縁があるからだ。

私がこの花を知ったのは身障者で放浪の詩・画人、小川安夫さんとの出会いがきっかけだった。1964年のある日、鎌倉の雪ノ下教会に山羊のような風貌の男が来て、首に掛けた札を見せた。それは武者小路実篤氏の紹介状で、「小川君は…」と短い説明があり、宿泊の依頼が書いてあった。私は教会のホールに一泊することを許した。武者小路氏の紹介があったからというより、彼の澄んだ目を信用したからだった。私は卵の目玉焼きで即席の夕食を作ってやり、マットに座って彼と話し込んだ。彼は貰い物だというダブルの背広とゴム長靴の姿で、リュックの中にはアシジの聖フランシスコの「小さき花」という本と色紙とスケッチ道具だけを入れ、絵を描きながら旅をしていたのだった。

彼はふと私をまじまじと見て言った。「先生はぼくと似ていますね。」「私が?」「はい。」…何だか馬鹿にされたような光栄でもあるような、忘れがたい人物評をされたが、考えてみれば無欲さと絵への愛情が似ていたのかも知れない。彼は不思議な直感の人だった。何年か後、私は彼が結婚して、銀座で路上画家となったことを知った。その後どうなったかは知らないが、両手に持ちきれないほどの物を持たない貧しさの自由とか、草取りで草が痛がらないように抜いてあげる感受性とか、物の見方、感じ方で私は彼に共感するものがあった。その彼が「遠い旅の詩」という本の中で、一番好きな花だと書いていたのがイヌノフグリだった。そこで、私はそれがどんな花かを調べ、結果としてはその仲間のオオイヌノフグリが大好きになったのだった。

そして、後にベロニカ苑とのお付き合いの中で、その野草が西洋名ではベロニカと呼ばれることを知った。ラルースの百科全書で調べてみたら、ベロニカは実は200種もあるらしい。しかし、ベロニカ苑のシンボルとなっているベロニカはオオイヌノフグリのことであった。そして、オオイヌノフグリはその西洋名を介して聖女ベロニカにつながっていた。

知る人ぞ知る。聖女ベロニカは聖書にも聖人伝にもなく、伝説が作った人ではある。その名は昔エデッサの王が布に描かせたキリストの顔に由来する。その絵は後に奇跡の絵として伝えられ、ラテン語でvera icon(真の御姿)と呼ばれるようになり、やがてそれがVeronica という人名を生んだのだった。ならば聖女ベロニカは単なる架空の人物かというと、そうとも言えないと私は思っている。歴史的にはそうでも、信仰的心情からすれば彼女は実在の人であり得たからである。教会にある十字架の道行きの第6留がそれを証明している。ルカの福音書はキリストが十字架を負って歩いたとき、嘆き悲しむ女性たちの一群が道端にいたことを伝えている。彼女たちの名は不明だが、その一人が顔の血と汗を拭いてもらおうと、キリストに布を差し出したとしてもそれは何らおかしくはなく、むしろあり得た行為だったと想像できる。だとすれば、それはキレネ人シモンが十字架を肩代わりした直後だったであろう。十字架を担いだままではとても顔は拭けなかっただろうからだ。

この聖書の記述を黙想して、後世の人はその勇気ある無名の女性に尊敬の気持ちをこめて、ベロニカの名を与えたのだと思えば納得がいく。そして、その名をいただく知的障害者の施設ベロニカ苑は今では社会福祉法人・地の星に発展し、聖女ベロニカの行いは今もそこで続いている、と私は思っている。なぜなら、聖書には「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」とあるからだ。

私がベロニカの花をスケッチしたのは4年前の、穏やかな早春の日だった。もっと陽気が暖かくなれば上向きに立つ茎も、まだ寒さが残るその時期には地面にへばりついている。絵はそんな姿を写している。このホームページには掲載してないが、どういうわけか、その絵はがきは私の多数の作品中、今でも一番人気がある。たぶん花そのもののけなげさや可憐さのゆえだろう。絵はがきには、私はこんな詩をつけた。

小さい花、ベロニカの花は空色の花。
道辺にひっそり咲いて、いつも仲良く生きる花。
可憐な花、ベロニカの花は十字架の花。
道辺にそっとたたずみ、みんな仲良く祈る花。

私にとって、空色で小さな花弁が四枚ある花は、ヴィア・ドロローザで泣くしかなかった女たちや知的障害者と重なる。かの女性たちは権力者の力や華麗な地位名声からはほど遠く、どちらかと言えばベロニカの花のように小さく弱い庶民だった。しかし、逃げない勇気とキリストを慕う愛情をもっていた。他方、知的障害者たちは知的には低くても心は善良で、美化するわけではないが幼子の心を保っている。ともに生きるそういう小さなもの達にこそ、神は慈しみの目を注がれる。「心の貧しい人は幸いである。天の国は彼らのものである」とあるとおりだ。小さな花ベロニカは私にそういう人たちを連想させ、神の祝福を感じさせるのである。

そんな思いがあって、先日ベロニカ苑の創始者安達ご夫妻に原画を差し上げた。妻は「えっ、上げてしまうの?」と言った。それほどの傑作でもなく、往復はがきの大きさほどもない水彩画だが、私にも愛着はあった。しかし、オオイヌノフグリが大好きで、知的障害者の作業所にベロニカの名をつけたほどのお二人だからこそ、原画を持っていただくのに一番ふさわしい方だと思ったのである。




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