佐藤正明 絵画と心



 花と実 「冬」

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 心の言葉

クリスマスローズへの願いごと


2005年1月13日の日記

 最近、NPO「芝の会」発行の小冊子で、蟻の町のマリアと言われた北原怜子さんについて、粕谷甲一神父様が書いた彼女の眼の話を読み、目からうろこが落ちるような感銘を受けた。同師は「“蟻の町の奇跡”といわれるような大きな力を生んだ源泉というのは、この人が大変なやり手であったとか、弁舌さわやかであったとかいうことでは全然なくて、あの静かな見上げるような眼というのが、いろんな人を動かすようになっていった」と語っていた。

次に、イエスきりストについて、「今年ふとそれ(クリスマスの聖誕風景)を見て、今までとは全然違うことに気がついたのです。それはイエス様の眼なのです。イエス様の眼だけが、下から上を見ていて、あとは皆上から下を見ているのです。馬も牛も全部含めて」と語り、「イエス・キリストの出発点が、天も地も人間も動物も一つに集めて、あんなに平和であったというのは、世界最高の方が最低になって、皆を下から見上げていたという、そういう眼差しがあったからです。そういう眼差しが、世界最高の賢者、全知全能の神様の地上到着の第一の目のつけどころであった。本当のことが見えてくるとは、下から見る眼だと思うのですね」とも書いていた。

北原さんと幼子イエス様に共通するのは下から上を見る眼差し。この指摘にハッとしたのだった。なるほど、そうか。本当のことが見えてくるためには下から見上げるのか、と心を打たれた。だが、「では私は?」と自問すると、今までそのように人を見たことがあっただろうかと、忸怩たる思いが残った。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイ 11:29)という聖句を、私は何回読んだことだろうか…しかし、頭でわかっただけで素通りして来たように思う。そればかりか、実際はむしろ自分が何者かであるかのような自尊心をひそかに持ち、人を見下しはしなかったと思うが、少なくとも対等の目線でしか接して来なかった気がする。 

しかし、「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」のならば、自分を見直すのに遅すぎると言うことも、この年になってなどという限度もないはず。こんな自省を思い巡らしながら、「下からの眼差し」から連想したのはクリスマスローズ(花と実Ⅰ、最上段右端)の花だった。4年前だが、竹原家から二本もらってスケッチしたとき、もともとあった露地にまだ咲き残っていた仲間の花達を見せてもらった。そしたら、みんなややうつむき勝ちに咲いているではないか。そこで思った。露地に咲いたまま描くとしたら、顔を地面につけて下から覗き込まなくちゃならないなぁ、と。だから、出来上がった絵はがきには、「下向きの花をこの角度で描くには、地面に顔をつけて見上げることになる。幼子の心に戻って、そうするのもいいか…」と一筆添えたのだった。

花を見るのと人を見るのとは似て非なるもの。しかし、クリスマスローズの咲き方には、蟻の町のマリアさんやイエス様の眼差しに通じるものがあるように思う。そんな形だけのご縁でも、人を下から見る生き方を学ぶきっかけにはなるかも知れない。そう思って、クリスマスローズに一つの願いごとをした。君はクリスマスシーズンの花だよね。だから、これからは私が覗き込むとき、時おり幼子イエスの眼差しを思い起こさせてくれよね、と。本当のことが見えてくるように、新春の願いである。



千両


2005年12月19日の日記

わが家のすぐ近くに、赤い千両の実の目立つ家が2軒ある。Kさん方とHさん方だ。Kさん方の千両は門を埋めるほど大きな一叢で、先日「見事ですね」と褒めたら、「キジ鳩が来てどんどん食べてしまうんですよ」と、奥さんから嬉しさ恨めしさ半々の答えが返ってきた。私もヒヨドリが食べているのは見たが、鳩も食べるとは知らなかった。餌になるものが減る冬場、この実も鳥達にとっては美しさもよりも生きるための切実な食料として、まさに千両の価値があるのだろう。しかし、今年はまだそれほど減ってはいない。

Kさん方の千両は門前にあるから、そこでスケッチさせてもらったら出入りの迷惑になるが、Hさん方は垣根越しに実をつけている。そこで、こちらなら邪魔にはならないだろうと思い、同家に一言お断りして、道路に立ったまま私はスケッチしてみた。ちなみに、葉の下に実がつく万両と違い、千両の実は葉を台座のようにして、茎の頂にまとまってつくから人目を引く。ちょっと時代劇に出てくる女達のかんざしの飾りのようでもある。 

さて、千両という名と時代劇という場面がそろえば、つい連想してしまうのはお金のことだろう。だれがなぜつけたのかは知らないが、木の実には万両、千両、百両(からたちばな)、十両(薮こうじ)などと、昔の貨幣の名で呼ばれるものがある。それらの中でも一番印象的なお金の単位として、よく話しに出てくるのは千両だと思う。それは大金のシンボルで、盗賊共が担いで逃げ、汚職老中が悪徳商人に貢がせるのも千両箱だからだ。

千両などという単位は昔の庶民には無縁のものだった。それは今でも同じことで、億というお金は庶民にはほとんど非現実的な単位だ。ところが、最近証券界ではみずほ証券が65万円株1株を、1円株65万株と間違えて売り注文を出し、数百億円の損を出す事件が起こった。唖然とする話だが、当然儲けた者がいた。金融担当大臣の批判もあって、USBグループ、リーマンブラザーズ、日興コーディアル証券などは儲けを返すと表明したが、何億も儲けた個人もいたことがわかった。もちろん、法的には悪事で儲けたわけではないから、彼らは何ら非難されるいわれもなく返金の義務もない。

安く買って高く売り抜ける投機的な株の売買も、資本主義社会では正当に認められた投資活動だ。とはいえ、それにはやはり準不労所得に近い、虚業的な匂いがしないだろうか。そして、そんな儲けで、「お金さえあれば何でもできる。お金がすべて」とするなら、そういう考え方は無批判に放置されていいとは思えない。貧乏人のやっかみで言うのではない。「お金は大事だよ~」と歌うアフラックには同感だし、私もその保険には入っている。しかし、お金を最高者と崇拝することは一種の偶像崇拝ではないか。神を信じる人は「神とマンモン(富)に兼ね仕えることはできない」(ルカ16:13)のだ。

では、お金中心に生きれば人はどうなるだろうか?聖アウグスチヌスは言った。「肉体まで精神的になれ。さもないと精神まで肉体的になる」と。そこで、肉体を金銭と言いかえれば結果はよくわかる。金銭にいたるまで精神的にならなければ、人は精神まで金銭的になるのだ。つまり金銭の奴隷となる。金銭に支配されて、魂は腐り輝きを失う。

お金の本質は何か?例えば自分ひとりが巨億のお金を独占しても、もし人類がいなくなればお金など紙屑同然となる。そうなればお金は何の役にもたたない。お金の価値は他者あってこそで、他者なしでは意味をなさない。「お金があれば何でもできる。お金が最高」の誤謬はこうして明白になる。

昔の人はそれを知っていて、木の実に万両、千両、百両、十両などの名をつけ、実際の小判にではなく、それに手を触れ、正月には生け花にしてそれを眺め、精神の粋なバランスを保ったのかも知れない。現代人もそのうち「億円」とか「万円」とかを、金銭欲から昇華された花や実のまたの名にできるだろうか?もしできたら、その時はそういう名のついた花や実を祭壇に生けて、神と「富」とに兼ね仕えることを実現できかも知れない。



カラスウリ


2005年12月27日の日記

県境にあるお気に入りの尾根道をあかね台前で左折し、クヌギ林の坂道を下りきると、右側は窪地の田圃、左側は丈の低い雑木林に変わる。カラスウリがあったのはその薮めいた林だった。枯れ枝の上を蔓が何本も這い、朱色の実がそこから多数つら下がっていた。その色は冬枯れの周囲とは対照的に、初冬の林の中に映える明りのようであった。

私は足を止め、しばしその美を見直した。「見直した」というわけは、かつて成瀬台に引っ越してきた当時、わが家では五月ツツジの間から生えるカラスウリに手を焼き、実の美しさを鑑賞する寛容さも持ち合わせず、絶滅させたからだ。ウリ科だがサツマイモのような根茎があり、毎年そこから生え出ては他の植木に絡まった。だから私は、五月ツツジの根の下に手をねじ込み、その根茎を取り出して捨てたのだった。その当時は朱色の実も、美しいと思うよりは迷惑な奴とばかり思っていた。

しかし、山道でその美を再発見して感嘆した。「こんなに美しかったんだ!」と。そこで、こんな山野の植物なら誰にも文句は言われないだろうと、蔓ごと一本取らせてもらって帰宅し、ザクロを描いた時のように吊るしてスケッチした。それから作った絵はがきはなかなか好評で、今も多くの方たちから所望される。なぜだろうかと考える。多分、構図が単純なのにバランスがよく、色彩に和の雰囲気があること、葉も枯れ蔓も萎び、不要な物がすべて削られて、実だけが命を託されて明るく存在しているからかも知れない。

それから半年後の11月半ば、私はまたたくさんのカラスウリに出会った。生まれ故郷の藤沢に行ったとき、キリスト教徒には死者の月だから墓参をした。昔は土葬をしていた林の中の古い墓地だ。そこには臨終洗礼を授けた父母が眠る。その帰途だが、私は薮の周りに数え切れないほどのカラスウリが、まるで照り映える柿のようになっているのを見た。これは凄いと思って兄嫁に聞いたら、邪魔な物だからいくらとってもかまわない。むしろ取れば喜ばれるというので、彼女にも手伝ってもらって蔓ごと引き寄せ、両腕にかかえるほど取った。そして、家に帰ってから、そういう物をよろこぶ知り合い達に分けた。

するとその翌年の夏、Hさんからはがきが来た。「頂いたカラスウリを蒔いて育てたら、何とものすごく美しい花が咲いて感動した」という便りだった。それによると、花は夜に咲き、花びらはレースのように幽玄なのだそうだ。私もそれを見たいと思って、スケッチの後花瓶に残ったままだった実を蒔いてみたが発芽しなかった。例の尾根道も夏の夕暮れに何度か通ってみた。だが、やはり花を見ることはできなかった。もし引っ越してきた当時、そんな幽玄な花が夜咲くと知っていたら、あのように庭から根絶などしなかったものをと悔やまれた。しかし、いつか見ることができるだろう。楽しみを残しておくのもまたいい。

いずれにせよ、ここでの主役は赤い実である。スケッチで描いたそのカラスウリの実はもう存在しないが、私は自分でも気に入りのわが絵をみて思う。「何だかランタンのようだな。この際、余計なことは書くのをやめよう」と。それが冬枯れの中の明かりのように、見るものの心にほっとする明るさと何らかの希望を与えてくれるなら、それ以上何を望むことがあろうか。ただ、そんな絵であり続けよ、と心に思う。




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