佐藤正明 絵画と心



 日本の風景

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 心の言葉

人間と大地


2004年2月25日の日記


フランスの作家アントワーヌ・ド・サンテクジュペリは、「人間の大地」という本の中で、「大地は本よりもずっと多くを私たちに教えてくれる」と語った。それは本当過ぎるほど本当だと私も思う。私はかつてボーイスカウトの指導者として約30年間、少年たちとよく大自然の中でキャンプをしたが、このサイトに掲載してある「日本の自然シリーズ」の「八ヶ岳」や「信州左右高原」などは、そんな感覚で描いたスケッチである。

では、いったい大地は私たちに何を教えてくれるのであろうか?大地は人間なしに存在し得るが、人間は大地なしには存在し得ない。根本的には、そういうことをわからせてくれるのでなないだろうか。
大地は広大で確固としており、人間がわめこうと抗議しようと取り合わない。砂漠の真ん中に置かれるや否や、人間は裸同然の無力な存在となる。詩篇の作者が歌ったように、朝咲いても夕にはしぼみ、風が吹けばその存在の痕跡さえも残さずに消える、野の花のように弱く儚い。だから、大地は私達にとって不可欠の支えであり、それなしには生命が存続し得ないことをわからせてくれる。いわゆる不可欠の存在条件Condition sine qua nonなのである。もうこの事実だけをもってしても、あたかも自分たちが他の何者にも依存していないかのように思う人間に対して、その誤りと傲慢さを粉砕するのに十分であろうと思う。

大地は、一見従順で無言のように見えても、人間の思いのままにはならないことをわからせてくれる。それは、人間が間違った幻想から目を覚まし、宇宙の中にいるありのままの自分を明哲に見つめ、何かあるいは誰かのおかげで生きる存在であることを認識する契機でもある。絶対者は人間ではない。人とはan existence by (何かによる存在)であり、絶対者とは an existence per se(自らによる存在)である。このことを把握してはじめて、人はまことの宗教の入口に立てるのだと思う。自分自身が何者か、いかなる存在か、がわかるからだ。そしてそのとき、人には大地や物たちの囁きが聞こえてくるに違いない。「私たちは神ではない。もっと上を探せ。」「しかり、彼こそ我らを創りたまえり!」(詩篇100;3)という囁きを。

人間と大地。かつて玉川学園の創立者小原國芳は、体育祭の日、園児、児童、生徒、学生の全員に、きまって次の簡潔な言葉で開催を宣言したものだった。「君達の競争相手は無限大の大空、確固不動の大地。しっかりやりましょう!」

初めてこの言葉を聞いたとき、私は「すごい!この人は体育でも人間とは何かを考えさせている。名言だ」と感服した。無限大の大空、確固不動の大地。それはとうてい人間が勝てる相手ではないが、その大空と大地の間で、心身を鍛え楽しみ合うために精一杯競い合う人間。ここに天と地の玉川教育が、その真髄の一端を示していると見て取ったからだった。

しかし、その大空さえ無限ではなく、大地すらも確固不動ではない。そのことに気付くとき、人は「では絶対な存在は何か?」「何が無限で確固不動の存在か?」という問いの前に立てるのだと思う。その問いがない限り、「わたしが天に登ろうともあなたはそこにいまし、暁の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、主よ、あなたはそこにいます。」(詩編139:8,9)という思いは共感できず、「わたしはあるという者だ」(出3;14)という啓示の理解には、至ることができないのではなかろうか。



わが意を得たり


2004年7月16日の日記

 パン屋に寄った妻を路上に停めた車で待ちながら、目の前の空中に錯綜する電線を数えてみたら何と40本以上あった。味の民芸駐車場から見た道路上の電線も30本を超えた。日本は何と多くの電線が無神経に張り巡らされた国であろうか。だから、7月6日の朝日新聞で、丸谷才一氏の随筆「袖のボタン」を読んだときは、わが意を得たり、と共感した。

丸谷氏は日本人の美意識を「内の美と外の美」で解明していた。「われわれは伝統的に内を重んじ外を軽んじてきた。芦原義信の説によると、…(西洋建築)は外から眺める景観である。一方、日本では内部から外を眺める。典型的なのは坪庭という『部屋の中から眺める小自然』である。そして、こういう美意識のせいで、日本人には『外的秩序の整備』というような都市計画的発想が欠落することになり、建築の壁面の看板や垂れ幕、屋上の広告塔、電柱や電線に汚される醜悪な都市景観が生まれた(続・街並みの美学)」と。そして、偉大な批評家だった柳宗悦でさえ視野が家の中に限られていて、「その著作のどこを見ても、たとえば日本の都市が電柱と電線で乱雑になっているという指摘はない」と言う。彼は日本人のこの「内の美」偏重が、「外の美」に対する無関心の元凶だと見る。

しかし、他の原因もあげる。それは明治維新後の「だしぬけに到来した西洋文明のせいでの当惑と混乱」である。たとえば、電線や電柱は文明開化の象徴であった。だから、美観を損なうデメリットよりも、国の威信を示す装置として評価され受容されたのだった。彼はこう続ける。「架空電線は、少しよくなった。1955(昭和三十)年、俳人中村汀女は銀座4丁目の『金網の出来そこない』のような電線網を嘆いたが、その後、銀座の電線は地中化されたし、95年電線共同溝法が制定されて事態は進展した。しかしそれは都心のごく一部のこと。電線地中化率はロンドンとパリでは100%、ベルリンでは99%、ニューヨークでは72%なのに、東京二十三区では6.6%。…住宅地の路地などでは、ケーブル・テレビ、有線放送などのせいでかえって蜘蛛の巣が増えている。海外旅行ばやりで欧米の諸都市を訪れた日本人の数は厖大なものなのに、たいていの人は柳宗悦と同じ流儀で街の眺めを見て来たのだろうか」と。まことに同感である。たぶん彼らは名所巡りやショッピングばかりに熱中し、普通の街のたたずまいなどはほとんど見てきていないのではないか。

日本の自然をスケッチしようと出るたびに、私もよく電柱や送電線などに幻滅させられる。わが町には描きたい場所がほんとに少なくなった。私がよく歩く散歩道に、町田市と横浜市青葉区の境界に沿った尾根道がある。途中一箇所で鉄塔の送電線が交差しているものの、その里山の風景と土の道は私のお気に入りであった。すでにスケッチも3枚描いている。ところが、最近その野道の傍らに、鉄製の高い電波中継受信塔らしきものが突如出現した。DoCoMo communicationと書いてある。何というグロテスクで無粋なことか。せっかくの自然をぶち壊す「文明の装置」に、私はがっかりしてしまった。

そういう意味で、今年の春スケッチした町田市岡上の「柿畑の彼方の家」の付近には、実に珍しいことだが、電線が皆無だった。だから、小高いところにある家はもう少し高くて尖塔でもあったら、さしずめヨーロッパ風の館にも見えるだろうに、と思った。横浜市青葉区のふるさとの森にある「寺家の谷戸」にも電線がなかった。左手にはむじな池がある。私はいつも、他の人の癒しになればと思って絵はがきの原画を描くのだが、田んぼに足を入れたまま畦道に座ってそんな風景をスケッチする一時は、私にとっても癒しの時間である。

「寺家の谷戸」のスケッチの右手にある山道を越えると、鶴川女子短大の裏手の町田市三輪町に出る。そこには、今では数少なくなった、昔ながらの土手の小川がある。源流の一つである。丸谷氏は言及していないが、日本人の「外の美」不感症は都市だけでなく、田舎の自然をも台無しにしてしまった。美的センスゼロの官僚と、土木工学の学者共が推し進めた三面工法はその一例だろう。洪水の恐れなど皆無の小川までコンクリートで固め、側溝のようにしてしまったからである。反対しなかった市の行政や地域の人も同罪だが、何とも嘆かわしい。土の尾根道同様、昔ながらの小川は貴重である。日本は間もなく人口減に転じるという。ならば、自然破壊も減少に転じて、「わが意を得たり」という方向になってほしいものだ。それには「内の美」だけでなく、「外の美」意識をもっと育てなければなるまい。




兎追いしかの山


2003年7月11日の日記

「故郷の野路」

 7月9日(水)テレビで安直ドラマのはぐれ刑事純情派を見ていたら、池上季美子さんが出演していました。彼女は私が玉川学園中学部で教えていた頃の生徒で、最初の授業のとき私が「皆さんこんにちは」と挨拶するやいなや、「先生、わたしたち美人ぞろいでしょ!」と叫んで、私の度肝を抜いた子でした。ちょっと色黒の、目のくりくりしたかわいい少女でした。今は押しも押されもしない女優さんで、私のことなど覚えてはいないでしょうが、その彼女がドラマでは病院で、車椅子の薄幸な母親に「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川…」と歌ってやり、「そうね、お母さん、私はちいさいとき、兎追いしを兎美味しいと思い込んでいたのよね」と笑いかけたりしていました。

それを見て、私も故郷を思い出しました。そう言えば、HPにある日本の風景の中で一番古い私の絵は「故郷の野路」だったなぁと懐かしくなり、ドラマの後で原画の裏を調べてみました。そしたら、1954年4月8日とあり、とても恥ずかしくて公表できない短い感傷的な詩も走り書きしてありました。

そう、これはもうほぼ半世紀前の絵なのです。そこまでタイムスリップすると、それはあの世界で二番目に大きな海難事故、洞爺丸遭難のあった年でした。そして、私はまだ24歳の青年で、自転車に乗り、代々木から千駄ヶ谷駅の前の通りを走り、神宮外苑を抜けて大学に通っていました。当時は車は少なくて、寒い日は手放しで自転車をこぎ、一度などはお巡りさんに「道交法違反」で捕まったこともありました。今ではその道路を自転車で走ることすらとんでもないことですが、半世紀前は東京都内でもすべてがのんびりしていた気がします。今では想像もつかないくらいに。

ましてや田舎はのどかでした。私の故郷の野路を少し案内しましょう。この絵は春休みに描いたのでした。北向きですから、右後からは春の日差しが暖かくさしていました。それが感じられますか?右側の麦畑はもうじき穂をぬく高さで、こういう根元に雲雀は巣をかまえるのです。でも、最近は雲雀の囀りをきかなくなりましたね。

この赤土っぽい坂道を地元では御手洗(みたらし)と呼んでいました。その右脇のクヌギ林が、4月になると乳緑色の若芽で一斉に萌えます。それを見ると私は感傷的になって心がうずき、矢も楯もたまらず野に出てスケッチしたものでした。ゲーテのファウストではないけれど、過ぎ行く青春を惜しんでか、『時よ止まれ!』と言いたい心境だったのでしょうか。今は逆で、『時よ、止まるな。人にではなく創造主に従え』と思いますが…

野路の左側にある小松林の中の小道を行くと、鎮守の森に入ります。道をまっすぐ下ると田んぼがあり、小川が二筋流れています。子どもの頃、学校への行き帰りにいつも通ったので、私にとっては夢路にもたどれる道です。道沿いの小さな流れには冬は氷がはりますが、それが解けて水中にめだかの影がちらちら見えると、もう春だと早春を感知したものでした。

ところで、「兎追いしかの山」の山は、どんな山なのでしょうか?アルプスとか日高とかのような高い、険しい山ではないように思えます。そんな山では兎など追えませんからね。私は里山だと解釈していますが、どうでしょうか?私の絵では正面の遠方に見える里山が、私にとっての「兎追いしかの山」です。その下の谷合いに私の生家があり、その上の里山で実際に私は兎を追って遊んだのでした。まるでシエラレオネの子たちのように、勉強もろくろくせず、夏はパンツ一枚、素足で林の中を走り回っていました。今思うと野生児でした。その里山も後には開墾されて畑になりましたが、さらに後ではそこを新幹線が通り、土地の形を一変させました。

故郷懐かしさに3年前、この絵の場所を訪ねてみましたが、行かないほうが良かったと後悔しました。野路は残っていたものの様子は一変し、畑には車の修理工場や家々が立ち並んでいたからです。故郷は遠くにありて思うものではなく、心の中に残すものではないかと思いました。
強いて言えばこの絵も「万物は流転す」(ヘラクレイトス)の一証明でしょうか。



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