佐藤正明 絵画と心



 カナダの四季

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 心の言葉

あなたがそれだ


2004年2月14日の日記


カナダの四季・冬の「雪原」のスケッチは、スキーで牧場を一人歩きしていた時のものだ。その日は地吹雪が舞わず、好天気であったが、立ったまま描いていると寒さが身を凍らせ、真っ白く輝く雪のまぶしさに目が耐えられないほどだったことを覚えている。そして、描いた後で思ったのは、 “Wash me whiter than snow” という詩篇51の一句だった。

「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。…わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。…」

これはダビド王が罪を悔いて歌った詩篇とされる。レンブラントの絵に「ウリヤとダビド王」というのがあるが、それはこの詩篇の背景に光りをあてる。ダビドは旧約聖書の中で屈指の人物であり、歴代の諸王のほとんどが「神の前を正しく歩まなかった」と告発された中で、神から祝福され、民からは聖王と崇められた名君であった。しかし、そんな彼さえも罪を犯したことがあったのである。

サムエル記下11章を要約すると、話はこうである。王はある日、王宮の屋上から水浴中の美しい一人の女を見て心を奪われ、彼女と寝て子を孕ませてしまった。ところが、その女バトシェバには夫がいた。ラバトアンモン包囲戦に参加中の兵士ウリヤであった。彼女を自分のものにしようとした王は夫を呼び戻すと、接待した後で書状を彼の指揮官ヨアブに持たせた。これがレンブラントの絵の場面である。ところが、書状にはウリヤを最前線に出し、敵が攻めて来たら彼を残して退却し、戦死させよと書いてあった。己の命を奪う書状とも知らずに運んだ哀れなウリヤ。ヨアブは命令を実行し、ウリヤは死んだ。謀殺であった。そして、妻ベトシェバは王妃になった。彼女は後にソロモン王の母となるが、どうもこの女、王を魅惑するためにわざと水浴中の自分を見せたのでは、と私は勘ぐる。ダビドの方は魔がさしたのだと思うが、彼女には邪な意図があったように感じる。

しかし、王のした悪事は神の前に許されなかった。神は預言者ナタンを遣わして言わせた。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の子羊のほかには何一つ持っていなかった。子羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて…彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の子羊を取り上げて、自分の客に振舞った」と。
ダビド王はその男に激怒し、ナタンに言った。「そんなことをした男は死罪だ!子羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」すると、ナタンはダビドに向かって言った。「その男はあなただ!」

彼は、神がダビド王を何度も苦境から救い、どれほど恵み富ませたかを思い出させ、それにもかかわらず王がウリヤを死に追いやり、たった一人の妻を奪った罪悪をきびしく詰問した。ダビド王はどんなにハッとしたことだろうか。彼はナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した」(サムエル記下12章)と。だが、預言者は、ダビドとの不倫でできたベトシェバの子は罰として死ぬこと、以後ダビド家からは剣による災いが去らないことを宣告したのだった。詩篇51には、その時の打ち砕かれた王の慟哭がある。

しかし、「その男はあなただ」という指摘はダビド王だけの問題であろうか?春先に始まる四旬節はキリスト教徒にとって、自己を省みる復活祭前の4 0日間である。人間はどんな人でも罪を犯す。ダビド王のような人物でも例外ではなかった。ましてや凡人においておや、である。彼の咎は、どんな人も弱さを持ち、罪悪から免疫になってはいない、ということを思い知らせる。だから、人は折に触れて、「その男はあなただ」という言葉を自分に置き換え、「あなたがそれだ」と指摘されないかどうか、省みなければならないと思う。 そう言えば、イラク戦争の正当性を、大量破壊兵器から「大量破壊兵器を持たせると、サダム・フセインは危険な男だったから」に変えたブッシュ大統領もまた、「あなたがそれだ!」に当てはまるのではなかろうか。

「人を裁くな」とイエスは言われた。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」とも。そして、群衆が姦通の現場を押さえられた女性を連れてきたときは、「あなた方の中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた。ナタンはダビドに、イエスは多くの人々に、「自分が見えてない自分」を気づかせたのだった。
だとすれば、人をとやかく言う前に、私も “Wash me whiter than snow”と願うべき一人であることを自覚しなければなるまい。雪原のスケッチは、こんな思いと凍てつく足下の感覚を、この時期になると、今も私に思い出させる。



逝く人、送る人

2004年3月20日の日記

 春先は他界する人が多いと聞く。今年はそれを実感した。関係のある人が3人も世を去ったからだ。レデンプトール会のN-A・レッサール神父(75歳)、カトリック町田教会の塚田朝春氏(86歳)、カトリック藤が丘教会の樋口幸雄氏(66歳)である。レッサール師を除いては告別式に参列したが、それぞれの別れは違っても、そこには共通のものがあった。それは、復活を信じて世を去る者にとって、死は一切の終わりではないという感慨であった。

 塚田朝春氏とは33年前ボーイスカウト町田1団で出会い、15年前からは手を貸す運動にも参加してもらった間柄だった。86才だったから天寿と言えるが、家族にとって死別はやはり辛かったにちがいない。しかし、In Paradisum で始まった教会でのミサと告別式には、喪失感はあっても悲嘆の雰囲気はなかった。そして、出棺の時の歌は「神共にまして行く道を守り、・・・また会う日まで、また会う日まで・・・」であった。復活を信じて世を去った者には、死は一切の終わりではない、という信仰の支えがあったからである。

 樋口幸雄氏とは個人的な付き合いはなかったが、私の家族が辛い思いで藤が丘教会に移籍したとき、奥様がバザーなどで親切にしてくださったので、間接的に感謝していた。その告別式で、私は思ってもいなかった経験をした。出棺の際、式の進行係が「では、拍手で送りましょう」と言ったら、期せずして聖堂内に盛大な拍手が起こり、しばし鳴り止まなかったのである。お葬式に拍手?他所でならいかにも不謹慎、冒涜ととられたかも知れない。しかし、そこでは自然であった。そして、ご遺族にとっては大いなる励ましだったのではなかろうか。私はこんな素晴らしい告別の光景は初めて見た。「力いっぱい良い人生を歩み、信仰に生きた友よ、この死別で一切が終わるのではない。復活のときに再会しよう!」そういう思いの拍手だったからである。

 レッサール神父の逝去を知ったのは 1ヶ月も後だったので、お通夜にも告別式にも行けなかった。そこで私は古い2枚のスケッチを出した。1枚は「あれこれシリーズ」にある「馬橇を使って働く修道士」、もう1枚は「キリスト教シリーズ」にある「復活の朝の想い」である。カトリック新聞を見たら、45年間にわたる彼の功績が書かれ、声欄には彼を敬愛する信徒の思いが載っていた。だから、私はそのスケッチで、多くの人が知らない若き日の彼を偲び、別れを告げることにしたのだ。

 馬橇から材木をおろしているのはレッサール神父である。背後の建物はカナダ、ケベック州にあったエルマー大神学校で、時は1959年の冬。仏語系大神学校は木曜日が休みなので、学生はそれぞれ好きなことをした。私はスケッチで息抜きをしたが、農家出身の彼は牧場や森で働くのが常であった。その日は雪上のスケッチから帰ったところ、勇壮に馬のローザが材木満載の橇を引いて来るのに出会った。御者は彼だった。馬の扱いなど慣れたものだった。当時、カメラのなかった私は、材木をおろす間の数分間に急いでスケッチしたのだが、それが思い出の1枚になった。

 もう一枚の農道が牧場まで続く風景は、私に復活祭の朝の空気を感じさせ、同時に若き日のレッサール神父の姿を思い浮かばせるものだ。彼はトラクターの入れない場所の草などを、よく大きな鎌で刈ったりしていたが、それがこのスケッチにある畑や牧場だった。私に、刃渡り70センチもある鎌で、腰を使って草を刈るコツを教えてくれたのも彼だった。そんな彼は宣教師としての使命を日本で全うし、刈りいれの主のもとに旅立った。しかし、すべては死では終わらないことを、彼の旅立ちは最も強く感じさせる。だから、私は彼のために口ずさみたい。「復活の朝の想い」の絵はがきにつけた復活祭ミサのことば、Victimae pascali laudesのその続きを。

  “Surrexit Christus spes mea; preacedet suos in Galilea. Scimus Christum surrexisse a mortuis vere; tu nobis victor Rex, miserere. Amen. alleluia.”

 (訳:わが希望なるキリストは復活し、弟子たちより先にガリラヤに行き給う。われらは知る、まことキリストは死者のうちより復活し給いしを。勝利の王よ、われらを憐れみたまえ。アメン、アレルヤ。)

  3人を送って思う。私自身が逝く人になる日も、もうそう遠くはあるまいと。その時には、お別れにバッハのカンタータ147番を弾いてもらい、 Victimae pascali laudesをラテン語で、そして自作の曲「神様のことばは」の4番を歌ってもらい、私も拍手で送り出してもらえたらいいなと思う。「この科学と文明の時代に、なんと素朴で単純なことよ」と嗤う人もいるだろうが、逝った3人と同じく、私も復活を信じて世を去ることに賭けているからである。



遠い日の散歩道


2004年8月1日の日記

青年時代に描いたカナダの四季のスケッチを見ながら、遠い日の散歩道をもう一度たどってみようと思い立った。自己満足の回顧録に過ぎないが、サイト訪問をする人のガイドになればいいとも思う。
私がよく歩いたのはエルマーの町とポワソン・ブラン湖周辺だった。
まずはその概要マップ。


〔その1〕 エルマーの町ところどころ

私が1957年から1962年までいた大神学院Grand Séminaire des Pères Rédemptrositesは、カナダ、ケベック州の小さな町エルマーにあった。地図を開くと、首都オタワ市の対岸にハル市がある。そこはケベック州だが、エルマーの町はオタワ川沿いの道をハル市から西北に、車で15分ほどいったところにある。当時は町の入り口にアーチがあって、訪問者の目印になっていた。

町に入ると、石造の大神学院が道路の右手にすぐ見えた。表側には楓の大木が林立する庭園があり、左手には聖堂に通じる玄関があって、その上には鐘楼が聳えていた。隣接のゲストルームは昔英国のジョージ6世が立ち寄ったことのある由緒ある部屋だと聞いた。そして、裏手の北側には広大な所有地が広がっていた。そこが私のお気に入りの散歩圏であったが、牧場の北端まで歩くと数十分、西端から東端までは15分ぐらいだったろうか。数十万坪はあったと思う。私の散歩道はその範囲内に限られていたが、とても広々としていたし、親しみのある生活圏内の風景しかスケッチする気のなかった私には、そこだけで十分であった。私の散歩圏は大きく分けると三つあった。畑周回コース、牧場沿いコース、遠出コースである。

畑周回コースは、畑を一周する近くて短い散歩道であった。校舎の裏口を出て、ポプラ並木の道を北へ行くとテニスコートがあり、やがて道が小川沿いになると、左右に小麦やジャガイモなどを栽培する広い畑があった。大神学院は午前9時から教室での講義が日課だったので、朝食後、講義前の一時はよくそのコースを歩いた。学友とだべりながら、20分ほどで一周するのである。第3コーナーからはそのまま南に歩くと、ハル市に通じる州道にぶつかり、東に逸れると鶏舎があった。そして、その先には葦や蒲の生い茂る湿地があり、小川にはラムスケ(ビーバーのような鼠)が住んでいた。また鶏舎にはスカンクが雛や卵を狙ってよくやって来たものだった。

フランスの影響を受け、当時ケベック州の学校は日曜日と木曜日が休みだった。そういう休日には牧場沿いの散歩コースをあちこち歩いた。畑周回コースの北側は緩斜面になっていて、そこからは牛の群れが気ままに草を食む牧場だった。牧場の中央を北に伸びる坂道を上りきると右側にはリンゴ畑があり、それを過ぎるとサイロのある牛舎や豚舎があった。私の散歩はリンゴ畑を通り抜け、右手の村境に向かう時もあれば、左手にある町はずれの民家沿いであったりもした。

中央の道を牧場に沿ってさらに北へ進むと、町から村に通じる田舎道とぶつかり、T字路には楡の大木があった。そして、その北側にある牧場には檜や松の林がサバンナ風に散在していて、その間を牛たちの獣道が九十九折に続いていた。牧場の西端は楡の大木の林、東端は民家に接していて、さらに北へ深入りすると、古木を横に組んだ牧場の柵に行き当たった。それは所有地の境界でもあって、その先は他の人が所有する楓の林だった。

しかし、最初そこまでへ行ったのはスケッチのためではなく、先輩の狐狩りや倫理神学教授の兎狩りにお付き合いするためだった。そんなことができるほど所有地は広かったのだ。当時、狐に蔓延していた病気を防ぐため、カナダ政府は狐撲滅を奨励していて、証拠に狐の両耳を持っていくと5ドルくれた。だから、ある先輩はお金目当てに狐狩りをしたのだった。しかし耳を切るのが不快で、私はすぐに同行をやめた。兎狩りも、罠にかかったのを大木の幹に叩きつけて殺すため、断末魔の声や飛び出す目がむごたらしく、それが嫌で、これもお供するのをやめた。そして、私の遠出コースは、時には一人、時には仲間連れのスケッチ散歩だけになったのだった。

絵について一言。その頃の私は規則的な生活をしていたから、一枚に1時間ぐらいしかかけなかった。描くのはほとんどが親近感や安らぎを覚えさせる、ありふれた身近な風景だった。小品ばかりでもある。清貧の誓いを立てた修道者だったから、画材は小学生のものより粗末だったと思う。絵の具はもらい物、紙はしばしばノート用紙や便箋の表紙、招待状カードの裏などすら使った。だから品質が悪く、今では染みが点々と出ているものもある。それに、その当時はインターネットの時代が来るなどとは夢想だにしていなかったので、後でどうこうするつもりもなく、ただ好きだから描いただけだった。だから、保存状態はひどいものが多い。しかし、私はそれをあまり気にしていない。私の絵はギャラリーではなく、本を読むように―しかも自分が―近くで見るもの。それにド素人の絵。だから、自分が生きている間もてばそれでいい。そう思っているからだ。

さて、帰国後34年たって1996年に訪問したとき、これらの散歩道はもうなかった。廃校となったかつての大神学院の校舎と、わずかな周辺の敷地以外は昔日の面影もなく、牧場は売られて新興住宅地に様変わりし、中央通りにつけられたレダンプトリスト通り(Rue des Rédemptoristes)という名称だけがただ一つ昔の名残をとどめていた。それはかつて牧場を南北に通っていた農道だった。スケッチした畑も、小川も、牧場も、湿地も、リンゴ畑ももはやなかった。それを見てつくづく感じたのは、世にあるもので時とともに変わらないものは何もないということだった。しかし、今は思う。遠い日の散歩道は思い出の中では変わることなく、スケッチがそれを今も甦らせてくれると。

 

〔その1〕牧草地からオタワ川を望む

牧場沿いコースをかなり歩いてから振り向くと、この風景が見える。凸凹した土の道はずっと南に伸びて、坂のあたりで視界から消える。それは今では舗装された住宅街のメインストリート、レデンプトール通りに変わったかつての農道だ。左右は青草の牧場だが、牛は一頭も見えない。数十頭いるのにこの日は別の場所にいたらしい。左手には牛舎と豚舎が見え、右手には赤い屋根の大神学院が木々の緑に囲まれて聳える。そして、その彼方にオタワ川がちょっとだけ光って遠望できる。モントリオール市のあるヴィルマリー島で、セントローレンス河と合流する川だ。対岸はオンタリオ州である。

この44年前のスケッチを見ると、若き日の自分の夢が思い出されて、私は心にひそかな疼きを感じる。後で知ったのだが、玉川学園の創立者小原國芳先生は夢をDreamではなく、Visionだと言い、No vision, the people perish(夢なければ、民は亡ぶ)と書いた。私の夢もまさにそういう意味であった。動かない大地の上を、動くともなく悠々と荘重に流れる雲を見ながら日本を想い、私は帰国したら人々に福音を述べ伝えたいと夢見ていた。「遠く地の果てまで全ての者は神の救いを見た。」(詩編98;3)それが夢実現の未来図だった。しかし、それをなし遂げたか?ある日、町田駅で夥しい群衆とすれ違いながら、私はその夢が自分の中でもうすっかり凋んでしまっているのを、突如自覚する衝撃的な体験をした。だから、この風景は懐かしさと同時に、心の疼きを覚えさせるのである。

玉川学園に在職中、私は夢を語り、こんな歌を作詞・作曲したこともある。「夢、夢を持とう。夢を生きよう。夢、夢があれば、目は輝き、魂も輝く、夢があれば。」そして、講義終了の日などに学生さんたちからサインを求められると、よく「魂の輝き」と書いた。しかし、今は自問する。自分はそのサインに恥じないか?魂の輝きは私自身に残っているのか?夢はどうなのか?と。

生田春月であったろうか、こう書いた詩人がいた。「憧れはわが手の玉。過ちて地に落とし、打ち砕くとも、なおわがものぞ。」私の夢はそれに似ていたかも知れない。魂の輝きもきっともう鈍っていることだろう。でも、なし遂げ得なかった夢や輝きを失ってしまった魂でも、それをありのままに受け入れて、今は老いた現実を生きよう。オタワ川遠望のスケッチは私にそんな思いを抱かせる。

 

〔その2〕ポワソン・ブラン湖周辺ところどころ

ハル市の北には小高いローランティド山地が続く。その山道を車で2時間ほどガチノー川沿いに走ると、目的地のポワソン・ブラン湖(Lac Poisson Blanc)に着く。通称Grand Lac(大湖)と言われるとおり広大な湖で、たぶん琵琶湖の半分はあると思うが、その湖畔の東端に大神学院の夏の家があった。学生たちは6月下旬から8月中旬までをそこで過ごした。

敷地の背後にはレデンプトール山が聳え、眼下には湖面が広がっていた。広場のまん中には聖堂があり、食堂や談話室などがある中央棟(hotellerie)は白樺の葉がそよぐ湖岸の崖の上にあった。そして、その左右の湖岸には道沿いにバンガロー風の小屋がいくつもあって、学生たちはそこで3,4人ずつ生活していた。湖岸に下りると埠頭があり、水泳-というより風呂代わりの水浴-はその近くでした。埠頭には小舟が数艘係留してあり、湖上の交通手段になっていた。夏の家は入り江の岬に面していて、先端に松の木が立つその風景は私のお気に入りだった。近くの沖合にはアメリカ人ビジネスマン所有のウオレン氏島があった。彼は夏休みになるとニューヨークから水上飛行機でやってきた。ところが、入り江の奥には貧しい木こりのルクレール家が住んでいた。父と息子は伐採した材木を筏に組み、船で湖面を曳航した後、おんぼろトラックで村に運んでいた。その家へは入り江沿いの道でつながっていたので、娘が私の所へ絵を習いに来たりしていた。

明かりは自家発電だったが、電力が足りないので、食品の冷蔵には独特の手段を用いた。初めてそれを経験したときは驚いた。当番で、牛の腿をまるごと一本冷蔵する役目だったが、木陰の広い小屋に入ったら内側いっぱいの地面が深く掘られていて、その地中にブロック状の氷塊が満杯に詰まっていたのだ。肉は中ほどの氷塊を何個か持ち上げた所に入れ、後はその氷塊で蓋をするだけ。だがこれで肉を冷蔵でき、野獣からも守れたのだ。氷は春のうちに湖から切り出して積んでおくのだが、大量だから夏でも融けないと聞いた。いわば人工的永久凍土だ。寒冷の湖水地域ならではの生活の知恵だった。

朝の黙想とミサ、夕の祈りは全員義務だったが、それ以外は夏の家では自由だった。各自が釣り、水泳、遠足、仕事、読書など、その日の計画を立てて過ごしたのだが、私が好んだのはスケッチと釣りだった。スケッチは夏の家周辺を一人で歩くことが多かったが、釣りはたいてい3人ぐらいのグループで行った。ポワソン・ブラン湖の周辺には小さな湖が多数散在していたので、私たちはそれを飛び石を伝うように小舟で渡って、遠足や釣りを楽しんだ。一つの湖から他の湖までは徒歩一分もかからないところもあったから、モーターを担いで移動し、他の湖に着くとそこにある小舟に取り付ける。小舟は誰が使ってもよく、後はレンタカー同様に置きっぱなしにした。小さな湖にはそれぞれ違った魚がいたから、釣りの時は狙う魚によって行く先の湖を決めた。岩魚はもちろん渓流だったが、ビーバーがダムを造ると魚がいなくなるので、気の毒だったが斧でそれを破壊したりした。そんな釣りの時も、私は時々スケッチをした。

ちなみに、ポワソンブラン湖周辺で遭遇した動物を列挙すると、哺乳動物ではアライグマ、ヤマアラシ、スカンク、ビーバー、大鹿、ムース、野生馬、リス、シマリス、野うさぎ等。鳥では青鷺、アビ、ミサゴ、カモメ、鴨、ハチドリ、ミソサザイ、シャコ、山鳥、椋鳥、雀、烏等。魚はシルバートラウト、虹鱒、岩魚、うぐい、パーチ、ドーレ、パイク、ブラックバス等だった。


遠い日の散歩道〔その2〕ポワソン・ブラン湖
2004年8月7日の日記


 目の前には静穏な朝の湖面が、天空を見上げる大地のまなこでもあるかのように、神秘な色をたたえていた。岬の木々には朝日がやわらかく当たり、その向こうには「クレープ島」がある。この島名は、学生たちが舟で行き、岩場でよくクレープを焼いたことからつけられた俗称だった。岬を越えて面舵をとるとコーエン湾の入り口にさしかかる。そこから上陸して一山越えると、川カマスのいるマド湖や虹鱒のいるラトゥルイット湖がある。が、そこまでは散歩道というより、難所越えだった。触れると飛び上がるほど痛いイラクサが茂る湿地の道と細い山道の登り降りがあったからだ。

しかし、この朝はどこにも行かず、私は道端に座ってスケッチをしていた。その年の夏休み、私のキャビンはこの道を左に行った一番奥にあった。その先は広葉樹林、手前は湖岸であった。だから、ユアール(アビ)のトホホと啼く声がよく聞こえ、八月の半ばを過ぎれば湖面をおおう水蒸気がよく見えて、雲上にいる気分だった。これは朝夕急に冷え始めるから起こる現象だった。道を右に行って左折すれば船着場に降りられ、右折すると中央棟や聖堂がある上の広場に出られた。これはポワソン・ブラン湖での日々の小さな散歩道であった。しかし、歩かずに座して絵を描き、ものを想うのもまた幸せな一時なのである。それは今も変わらない。

嘘にならないために、このスケッチに添えた言葉は、朝のもっと早い時間に書いた感想の一部分を手直ししたものだ、ということをことわっておきたい。散文詩気取りで、今となると気恥ずかしいが、原文はこうだった。

ポワソン・ブラン湖の朝が明ける。
入り江の深い奥まで ひたひたと水は寄せ、
岬の岸に生い茂る樹木の黒い影が 沈黙を守りつつ揺らぎ、
暁の光が高く走ると 湖面も静かに 色を変えてゆく。

 創造の日の初めには神秘な水が 暗黒に蔽われてあった。
幾億万年が 一日一夜のごとく過ぎ去り、
今日もなお いにしえの神秘を帯びる水は
創造の傑作として 私の前に存在している。
永遠の手の力のように、
深い魂の眼のように、
もろい人間の命のように。

 その水底には 数知れぬものがうごめく。
その岸辺にも 無数の生が営まれている。
そのようにして 物たちは神をたたえているのだ。
創られたままに生きること、そして在ることが 彼らの賛美なのだから。

 静かな入り江の朝、私はそこに汲み取る。
人間には、永遠の愛がとっておいた、
今日一日の 恩寵のしるしを。
Magna sunt opera Domini, scrutanda omnibus qui diligunt ea!
(詩編111;2)



自然界にもアレルヤ


2004年11月30日の日記

遠い日の散歩道〔その1〕最終

 復活祭が過ぎると教会暦は復活節に入る。当時のカナダではその時節になると、教会にも自然界にもアレルヤの声が満ち満ちた。教会がアレルヤと歌うのは、キリストが死から蘇えり、人類を罪から解放してくださったからだが、自然界にアレルヤが溢れるのは厳しい冬が終わって、命の蘇える季節が到来するからだ。アレルヤはハレルヤとも言う。正確にはハレルーヤーと言うべきだろう。ヘブライ語でハレルーは、ピエル態動詞ヒレル(讃える)の二人称複数命令形であり、ヤーはイスラエルの神の名、ヤハウエ(またはヤーヴェ。エホバは間違った読み)の頭文字だけ取った短縮形だ。だから、アレルヤとは「汝らよ、神を讃えよ」の意味になる。

そんな浮き浮きした復活節のある休日、私は一人キング山へと向かう道を歩いた。ローランティド山系にあるこの山はスキー場もあり、首都のオタワ市から遠くないこともあって、多くのレジャー客が訪れるリゾート地だ。私たちも冬場はそこまで数キロ歩いてスキーをしに行くことはあった。しかし、その日の私は山までではなく、エルマーの町から2キロほど行った所で足を止めた。その辺りで風景を描きたいと思ったからだった。そして出来たのがこのスケッチだった。

ふつうなら埃が舞う田舎道も雪解けの季節のためか、その日は湿っていた。私が足を踏み入れた牧場付近は少し低地になっていて、楓の大木が不規則に並ぶ道路の両側には雪解け水が一時的な沼地をつくり、切り株や古びて壊れた農具が半分水につかっていた。牧場は単調な冬枯れのままの色だったが、緩やかな土地の起伏は風景にアクセントをつけていた。私はそこをスケッチの場所に選んだ。辺りには何の変哲もない農家が数軒あるだけだったが、そんなありふれた風景がむしろ私の気持ちにしっくりきたからだった。

この時期は、家畜はあまり牧場に出ていない。だから、無断で入っても咎められることはなかった。咎める者がいたとすれば犬だっただろうが、それにも吠えられなかった。太陽は明るく、春めいた暖かさに体すべてが包まれる感じだった。その感覚はスケッチを見ていると、不思議と今も蘇えってくる。そんな一時を、誰にも煩わされずに一人のんびりと絵を描いて過ごせることの何たる安らぎ!それは魂の自由を味わう一時でもあった。自然に語りかけたり自問したりしながら、筆を動かし色をつける。仕上がった絵がたとえ大したものではなくても、それは私にとって、その日の時間がいっぱい詰まった思い出でであった。

私はこの日もなるべく輪郭を線で描かずに色と色で表わし、墨を使って版画風の印象を出そう試みた。多少は成功しているとは思う。しかし、絵の良し悪しや上手下手とは別に、かつてのスケッチを見ると感じることがある。それは、その後も絵を描くことをやめなかった私だが、今ではもうそういう素朴さをもっては描けなくなっているということだ。それはナイーフだったが純粋な信仰をもって生きていた若き日の自分と、世の嘘いつわりや汚れの中を通り抜けてきた今の自分との違いなのかも知れない。

しかし、変わったのは私自身だけではない。スケッチに描きとめた風景も大いに変貌し、それらが存在した時代も移り変わってしまった。カナダの教会では、私がいた50年代の終わりから60年代の初頭の頃、Resourcement(源泉復帰)の運動が盛んだった。ミサの歌もジェリノーなどの詩編の歌が古い聖歌に取って代わり、典礼が刷新されつつあった。そして、それらの流れは1963年に始まった第二バチカン公会議によって決定的になった。

ところが、ケベック州ではそれと時を同じくして学校の州有化などが進み、生活の都市化と近代化とともに教会の影響力がみるみる失われていった。以前は教会が村や町の中心であり、主任司祭は人々の指導者、相談相手、行政の一端まで担う存在だったが、そういう在り方は昔のスタイルとなっていった。教育も、生活も、行政ももはや教会を必要としなくなった。こうして1970年代からRevolution tranquille(静かなる革命)が始まった。そして、特に若い人たちの教会離れが加速されたのだった。1996年にTrois Riviereで一ヶ月ほど過ごしたとき、私は人々のメンタリティがもはや私がかつて過ごした年代のケベック人のものではないことを痛感した。

二度と戻らないのは私自身の遠い日々だけではない。その後の時代も風景も全ては過ぎ去り、今あるものも時と共に絶えず変貌しつつある。自分にとって思い出深い所を訪ねても、そこの人々にとって私はもうよそ者にすぎず、私が懐かしいと思う自然の風物も、私を懐かしんではくれない。自分の第二の故郷だと思っていたケベック州に二度戻って、訪ねる度にそのことを実感した。それは自分の生まれ故郷である藤沢市の旧御所見村でさえそうなのだから、カナダなら当然と言えば当然なのだ。

しかし、現実はそうでも、スケッチの中にはかつての遠い日々が今も残っている。それは時とともに変わってゆかない。そして、アルバムを開くたびに思い出を今に再現してくれる。しかも、美しい思い出ばかりをである。なぜなら、私が描きとめておいたのはほとんどが、私にとって好ましいましと思われる存在ばかりだったからだ。それらを眺めると、私には今でも牧草や空気の匂い、小鳥の囀りや風の音が感じられる。もしも私だけでなく、このカナダの四季を見てくれる方々にも、それがいくらかなりと味わっていただけたのなら、この「遠い日の散歩道」のコラムは書いた甲斐があったというもの、もって瞑すべしとまでは言わないが、満足しながらの擱筆となる。いずれにせよ、お読みくださった皆さん、ありがとう!


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